Specialースペシャル対談ー

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YouTubeで公開中の対談動画を文章で公開!

未公開部分も加えた完全版。

配信舞台「たかが世界の終わり」が証明した、

演劇の新たな可能性。

​文/大西健斗(編集者・ライター)

2020年10月、「第7世代実験室」の俳優たちが自主制作で行った配信舞台「たかが世界の終わり」が、好評につき4日間のアーカイブ配信が決定した。

本作は、フランスの劇作家ジャン=リュック・ラガルスによる戯曲で、自身の余命が僅かであることを知った主人公・ルイが、長年会うことを避けてきた家族の元へ帰郷して打ち明けようとする物語。

昨年「佐々木、イン、マイマイン」「his」で、第42回ヨコハマ映画祭最優秀新人賞を獲得した期待の新星、藤原季節が主演を務める。

 

この度の再配信を前に、シェイクスピア劇で彼らと関わりの深い翻訳家・松岡和子先生と演劇ジャーナリスト・徳永京子さんを迎え、演出を担当した俳優、内田健司との対談をたっぷりとお届け。

革新的な本作の魅力や、つくりあげる上での苦悩についてはもちろん、師である蜷川幸雄氏からの教えの数々を振り返りながら、舞台とはなにか、演じるとは、演出とは何かを改めて考える、貴重な対談となった。

「打ちのめされなきゃ、

    新しいものは生まれない」

松岡: 今回の対談のお返事をしてから観たので、「つまんなかったらどうしよう」と思っていたのですが、とってもおもしろかったです。普通の芝居のやり方とは全然違うし、配信を前提にしているとはいえ映像のためでもない。 その狭間をどう駆け抜けていくのかが、課題としてあったのだと思います。その課題に対して、今まで見たこともないアプローチで生の芝居をやっていて、“生ではない”という素晴らしい矛盾を楽しめました。

 

徳永: そもそも、なぜ今回の舞台で「たかが世界の終わり」を選ばれたのでしょうか?

 内田: 第一に、出演者が少なくていいことがありました。僕は多い方が好きなんですけど、(新型コロナ禍という)状況的に今回の配信に関わる人数がかなり限られていたため、自然とスタッフのことも考えて、出演者も少なくしなきゃいけないという…。とはいえ、コロナ禍で無観客上演を目指す演劇ドキュメンタリー「#playthemoment」​を始める時、そういう制限を飲み込んだところから始めようという心情でもあったのでいいんじゃないかと。

松岡: メンバーみんなで、戯曲を探して決めたのですか?

 

内田: そうですね、みんなでそれぞれ出し合いました。この戯曲は、僕が何年か前に読んだことがあって、主人公のルイに共感したんです。 あと、リュック・ラガルスさんが、余命宣告を受けてもなお書いた戯曲ということですから、その強い思いを形にしていった方がいいんじゃないかという思いもありました。

 

松岡: 私は今回、初めてこの戯曲を読んだんですけど、はっきり言って、ややこしい戯曲じゃない?一人一人のセリフもすごく長いし。

 

内田: そこは、ルイの母親役の銀 粉蝶さんからも「なんでこの戯曲なの?」と言われていました。僕は最初、モノローグが多いからこそ「ひとりひとりが役を作ってくれりゃ、できるんじゃないか」と軽い気持ちだったんですけど、やってみておっしゃってる難しさが分かりましたね。

(左から)内田健司、松岡和子さん、徳永京子さん

​「たかが世界の終わり」収録会場となったNINAGAWA STUDIOにて。

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​「たかが世界の終わり」本編より

松岡: 銀さんのお母さん役はハマってましたね。ト書きも全くない本で、彼女の長台詞のところをお酒を飲みながら半分酔っ払って、しっかりシチュエーションにしてあるじゃない?突如、暴力的になるところがあったり、どこもスパスパッとハマっていましたね。よく出てくれたよね。そもそも銀さんとダイナナ(第7世代実験室)の接点はなんだったの?

 

内田: それは、僕らも謎なところはありますね…。まぁ、蜷川幸雄さんのコネなんですよね……(声をひそめながら)

松岡: それは、人と人との繋がりですよ。「この人がやるなら、やってみよう!」とか。全部そうじゃない?私や徳ちゃんがここに来て、こういう話をしているのだってみんなそうだと思う。
 

徳永:  内田さんは照れてらっしゃいますけど、銀さんに直談判されたそうですよ。

 

内田: あの役をできる人は少ないですしね。銀さんは、酔っ払ったりしても嘘にならないというか。なにより、銀さんが「酔っ払って大丈夫かな?」と提案してくださったんです。そういうチャレンジも、嫌がらないで一緒にやってくれる方で。最初は僕のことを信頼しているからと言ってくれたんですけど、なんで信頼してるかわかんないですし…たぶん、信頼しているというよりは“心配”してたんだと思うんですよね。

 

松岡: 私は、彼女が小劇場の出身だということがすごく大きいと思う。今は映像にも出てるし、銀粉蝶といったらビッグネームだけども、そもそもの出発点が「ブリキの自発団」だから。何年か前の自分がここにいるからやろう、という気持ちになったんじゃないかなと思いますけどね。

徳永: 銀さんをキャスティングしてなにより幸運だったのは、一緒に作っていくことを厭わないところと、戯曲を読み込める俳優だということじゃないかなと思います。その銀さんが現場にいてくださったというのは、ダイナナのみなさんにとっても貴重な経験になったんじゃないかなと。

 

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YouTube​ドキュメンタリー・稽古風景より

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​YouTubeドキュメンタリー・稽古風景より

内田: それはありますね。キャスティングした狙いなんてものがあるというと、おこがましいのかもしれないですけど。戯曲を能動的に解釈して、実現していくということがかなり少なくなってきている実感があるんですよね。僕も、ダイナナのみんなもその辺がまだ疎いところがある。だからこそ、銀さんのような俳優と出会って打ちのめされたいというか、打ちのめされなきゃ新しいものは生まれないんじゃないかなという思いがありました。横のつながりだけで作ってんじゃねえよって。

松岡: そっか。蜷川さんには打ちのめされっぱなしだったから、そうやって次の自分を掴んでいくというのを、自分たちだけでやっていこうということなのね。

 

徳永: その意識があるのかないのかで、大きな違いが出てきますよね。どうしても横並びでスタートしてしまうことが多いですから。

松岡: ダイナナのみんなは、蜷川さんが亡くなってから心配していたんですけど、ちょうど私が「ヘンリー八世」の稽古をしている時に、ばったり会ってね。チラシを渡されて、「新宿のゴールデン街劇場でこういうのをやるんです!」というから、どんなことをやるのか観に行ったら、どこかに行きたいだとか、何かを見つけたいという焦燥感に近いものをすごく感じたんですよ。それは行動する上で大事なことだと思うし、戯曲を自分たちでつくる、自分たちで場所を探してやるという、実際に行動に移すことでエネルギーが出てくるはずだから。そうしていると今度は、映像だけのリモート演劇「リチャード三世」をつくってたのよね。

「Zoom演劇」の画角と、

   プロセニアム・ステージの親和性

内田: 改めて、「リチャード三世」の翻訳を提供いただいたお礼をいいたくて。 

松岡: 私こそお礼を言いたかったですよ。周りから嫉妬されたぐらいです、あんな風に作ってくれたから。私は、「ふん!どんなもんだい!」って感じなんだけどね。なにより嬉しいのはね、「誰が訳したの?」と、思わせてくれたところです。私が翻訳したことから離れて、「この人たちはなんて素敵な言葉を、自分の言葉として言ってるんだろう」と思わせてくれた。特にリモート演劇で、ひとりひとりの免許証の写真のようなアングルでやっているじゃない?だから言葉がダイレクトに直球で出てくるから、発する側にとっても聞く側にとってもごまかしがきかないよね。聞いていて、言葉が幸せだったと思います、すごく。

徳永: ひとりひとりがリモートで演じるとなると、横にいる人との呼吸がないから、どこまでやっていいのか、どこで抑えればいいのか手探りだったと思うんですね。だけど、みなさんのトーンがちゃんとあっていたこと、シェイクスピアがダイアログで書いたことをひとりひとりが発して、モノローグになることですごいおもしろい構図になっていたなと思いました。

松岡: あの方式で、他にもいくつかやってもらいたいと素直に思う。あれが戯曲の新しい表現形態ですよ。朗読でもなんでもない。ひとりひとりが、その役と、言葉と、どう立ち向かうかっていくかという1シーン1シーン、1コマ1コマがその証拠じゃないですか。だから、リモートというマイナスの条件を全くプラスに変えていたと思います。どういう状況になってもクリエイトできるんだなと。いわば、生で勝負する舞台人にとっては、今の状況ってどん底じゃないですか?でも、どん底でやることが、今までにない発想で誰もやってこなかった表現ができるんだなってことを、あれは証明したと思う。ひとりひとりが抜き差しならない状況で、戯曲のセリフと向き合ったというのも大事だ。「リチャード三世」の経験を元に、コロナ渦だけど今度はこういうのをやってみようということが、もうよくやったと思うし、めっちゃおもしろかった!

#playthemoment 第一弾

「リチャード三世」

2020年4月よりシェイクスピア作"リチャード三世"を俳優たちが自宅で撮影し、一度も会わずに連続リモートドラマ化。

俳優たちの自主制作、無料配信ながらその取り組みとクオリティの高さが注目された。​今回のキャストである内田健司が主演、最終話のゲストには藤原季節が出演している。

徳永: 同じ時期に配信演劇ってすごくたくさんあったし、ああいったレイアウトの「Zoom演劇」みたいなのもたくさんあったんですけど、誰が喋って何を言うのかっていうことに、集中してばかりであまり参加意識が持てなかったんですよね。でも、ダイナナの「リチャード三世」は、そんなことを考えずに引き込まれる集中力があって、戯曲をかなり咀嚼されていたのかなと。あとは、綿密な打ち合わせをしているのかなと思ったんですけどいかがですか?

 

内田: レイアウトについて俳優の立場で言うと、プロセニアムの舞台と同じだろうなと。映画とかドラマとは手法が違うけれども、Youtubeとかの画角では定点で撮ってやってると思うんですけど、俳優としては定点で画面越しとだったとしても額縁構造のプロセニアム形式と一緒なんです。天地があって、上下にはけて、ほとんどの奥行きもない。そう思った時に、「全部、自分でアップをつくれ」って蜷川さんの言葉が出てきたんです。舞台の時は、呼吸でつくるんですよね。ハッていう沈黙がきて、アップで芝居をつくったり、ルーズにしたりっていう。そういうことをネクスト・シアターでずっと言われながらやってきたので、レイアウトが「Zoom」でもできんじゃないかなと思いました。やる人たちの負荷はすごかったですけど…、ぶっちゃけ、それが演劇だからって言うか(笑)。「その苦しさはあるよね」「演劇って別に楽しむもんじゃないよ」って。だから、苦しみながらやりゃいいと思って、つくりました。

 

徳永: どういう形でやるにしろ、常に大変だと。

 

内田: 俳優だけ楽ってことはないと思うので。自分としては浅はかな確信で、みんなもそのやり方を信じていたら、どん底だからこそプライドがいい方向にいってできたんだと思います。

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リモートドラマが一般化する前にいち早く動き出したこの企画は、大竹しのぶ、中嶋朋子、河合祥一朗、徳永京子(敬称略)などから推薦コメントが発表されるなど話題に。

CAST

内田健司/青柳尊哉/宮崎秋人/周本絵梨香/佐藤蛍/結城洋平

角健士/髙橋英希/サカベカズミ/鈴木真之介/阿部輝/中西晶
杉浦奎介/ドルニオク綾乃/牧純矢/長尾稔彦/大西一希

土井ケイト/中山求一郎/藤原季節

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「リチャード三世」最終話より

Youtube​ダイナナチャンネルで配信中!

徳永: 「Zoom」の画角をプロセと同じ風に理解されたり、「たかが世界の終わり」のモノローグが続いていくところも、ひとりひとりがつくってくれば芝居になるんじゃないかと思われる、内田さんの感性が驚くほど軽やかで、すごくびっくりします。ほかの世代には、もっと負荷を感がることがあると思うんですけど、スタートの時からあんまり気にしすぎないんですかね?

 

内田: だからやばいんですよね、みんなからめちゃくちゃ怒られましたよ。プロセニアムとして捉えるとしても、どうしてみるのかをちゃんと教えて、ちゃんと論理的に説明してやんなきゃできないわけだから。でも、そういうことをやんなかったからダメだっだし、めちゃくちゃ怒られたんですけど。「しょうがないじゃん」っていうか(笑)。最近でいうと、銀さんから「あなたが演出をやるんだったら、どこに向かってやるのかをを決めて来ないとだめじゃないか」とかね。まぁ、自分としては怒られ慣れしてるというか、怒られてもあんまできねえなというか。怒られながらやるもんだろって。むしろ、怒られながらやりたいと思いながらやってるところもあるんですけどね。

血となり肉となり、呼吸となっている〝蜷川イズム〟

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松岡: 今回(「たかが世界の終わり」)のレイアウトとか、最初にみんなでつくっていって、それで途中でものすごいヒートアップしたやりとりがある中で、奥の方でスタッフがぼやけた姿で映っているとか。それ自体がすごくおもしろかったし、それも計算の上でやってるわけだから、これは途方もない演出だなと思いました。それから、蜷川さんが外国の芝居をやる時に、ずーっと感じてきた〝恥ずかしさ〟があった。それをどう彼は解消してきたかというと、「日本人の役者である私たちは今、ここにいます。それが、今から衣装を着たりして、ギリシャ神話の中に入っていきます。シェイクスピアの世界に入っていきます」って、恥ずかしさを解消するために、劇場にいるお客さんと私たちは同じ時間にいて、衣装を着て変身してやっていくからそれを見てねという。それが蜷川さんの〝恥ずかしさ〟の解消であり、お客さんを劇世界に誘う道筋だったじゃない?ダイナナの「たかが世界の終わり」を観ても、それだと思った。無意識でやってるかもしれないけれどね、蜷川さんの羞恥心の解消が、ネクストの血となり肉となり、呼吸となっている〝蜷川イズム〟を感じましたね。

 

徳永: 私は映像ということもあって、モンタージュを見ている感じがしました。何人かの主観があって、バラバラで、合わせてもピッタリこないパズルのモンタージュみたいなものを見せられているなと。それは悔しいけど、映像の良さみたいなものを痛感したりして。

 

松岡: そう、そこなのよね。映像じゃなくちゃ。途中でね、ルイ役の藤原季節くんの鏡の前でのモノローグで、ずっとアップになってるじゃない?観ていると「ちょっと違うんじゃないかな…」と違和感を感じた瞬間に、パーっと引いて全体が見えるようにするとか。あの辺が心憎いというか、「やられた!」って感じ。そういうおもしろい伸縮が、舞台ではできないのよ。

YouTube​ドキュメンタリー・稽古風景より

​「たかが世界の終わり」本編より

内田: あぁ…、なるほど。

松岡: 舞台では自分が寄っていってズームにするんですけどね。だから蜷川さんが、「せっかくズームにしてやってるのに、なんで前を向かないんだよ!」っていうのがあるじゃない?あれは本当に、お客さんがひとりひとりをズームしていく。恐らくそこも無意識のうちに、舞台における「ここはお客さんがズームしてやってちょうだいね」というのを、「ここでカメラを寄せていきますよ」「ここからは引いてみてちょうだいね」「全体の中で、ポジションはここにいるんですよ」ということに置き換えてやっている。そこがね、映像の人が舞台を撮るのと、舞台の人が映像を撮るのとの違いだと思いましたね。

 

徳永: あと、ワンカメというのも大きかったですよね。振り回されている感じがあって。私はなんとなく演劇って「作り手の人に、どれだけこっちがコントロールされちゃうか」が快感だと思っていて。時間の移動だったり、場所の移動だったり。身体感覚の拡大とか伸縮というのを舞台上にいる側からのコントロールが、こっちにどれだけ効くかといのが私は映画より舞台の方が強いと思うんですね。だから、うまくスイッチングして映像を繋げられるよりも、わがままなワンカメでブンブン振ってコントロールされると、身体感覚が舞台を観ているのに近かったなと。

 

YouTube​ドキュメンタリー・稽古風景より

内田:普通の舞台の演出を学んでいる最中なのに、配信に突入しちゃったんで、いろんな方のアイディアと模索でした。最初はいろいろな劇場の風景とかも映して、「また劇場を開けたら来てくださいね」というような映像になっていけばいいかなと思っていたんです。けど、今は限られた人数しか見れなかったりすると思うので、実感がなくなっちゃって。そうなったら、やっぱりこの劇場でやるからには、お師匠に教わったところで「実感でやっていけ」というか。実感でやるしかない、と思ったんですよね。その実感ってなんだろうなと考えたときに、この稽古場だけに集約したほうがいいなと。

自分に………まぁ、そこも悔しいですね。常に蜷川さんの言葉が出て来ちゃうんですけど、「嘘ついてんじゃねえよ」っていうか。「バカだなぁ、俺は。嘘ついてんじゃねえよ」と気づいたというか。カメラワークも楽屋も全部みせる。「蜷川さんとかに学んだからって、かしこぶってんじゃねえ」っていうか…。蜷川さんはそういう人じゃなかったから、大衆の芸能として舞台をやっていたわけなので。銀さんにも「こんなややこしい、インテリしか分かんないような台詞回しをつらつらお前がやったってしょうがないぞ」って言われて。根が俳優だから、「またカッコつけちゃったな」と気づかされたり。そういうひとつひとつ、「ここには実感があるかな?」って確認しながらメモを取って、つくっていった結果でできています。

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YouTube​ドキュメンタリー・稽古風景より

演出への悩み...

「やってみないと分からないにもほどがある」

内田: 自分にとっては、演出がまだまだ課題で。やっぱり職業的な演出家の人は、戯曲を読んだ時に頭で分かるんじゃないかと思うんですよ。僕はまだ職業的に俳優なんで、体から入っていくというか。やってみないと分かんないにもほどがある、というか。もう稽古も終盤で、あと三日だっていうところでそういう風に変わっていっちゃうというね。しかも説明もできないっていうね、なんでそうなのって言われたら、わからない。

 

松岡: でも、今のすごく素敵! 〝やってみないと分からないにもほどがある〟

 

内田: そこをぜひね、徳永さんと松岡さんにも言っていただきたいんですよ…。僕はね、頭から入りたいんですよね…。

松岡: なんで?その必要ないじゃない。演出なんて、いくらだって方法があって。例えば、役者の経験がなくて、演出する人にそれを言ったら悔しがられるよ。それは、強みです。あなたの。〝やってみないと分からないにもほどがある〟は、内田健司の強みです。ほんとそうだよ。私、慰めて言ってるんじゃないからね。たぶん同じだと思うんだけど、私は翻訳して劇を書いているじゃない。エッセイみたいなものも書いて、舞台に関わるものは稽古場にいて、言葉に関してああだこうだ考えたりしているけど、その上で演出する人もいる。逆もしかりで、翻訳しない演出家だっている。翻訳する時に、あるセリフを読んでも分かんない場合は、「どうしてこの人物は、この言葉をつかって、こういうことを表現するのだろう」って、その人物になって考えて解決していくの。それと同時に、上から「シェイクスピアはなんでここで、この人にこんなことを言わせるんだろうか」と両方考えるのよ。

 

内田:あぁ、そうか。

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松岡:それで、この流れだからこうか。この言葉が出てくるからこうだから、日本語だったらどうじようかと訳していく。だから、演出をする俳優っていうのは、「なぜこの人物をこういうことを言うのか」と、特に今回の芝居の場合はト書きが全くないから、セリフのひと言の中に悲しみか怒りかそこに何があるのかを考えるわけじゃない。それは、その人物から湧いてくる想いや言葉の裏側を考えている。でも、作者とか演出家は、関係の中でその言葉を言わせている。なぜそれを言わせるのかを、俳優なら両方考えられるんじゃないかなと思うのね。さらには、上から「なんで」と見て問う視点というのは、否応なしに必要とされてくると思うね。

「シェイクスピアの楽しさ」とは何か、

〝頑張るしかない〟の言葉につきた配信演劇

徳永:これから演出家としての希望もありますか?

 

内田:今はまだ全然なくて…。俳優としての課題もみえてきましたし。これはちょっとご相談なんですけど、シェイクスピアとか。特に言うと、「ジュリアス・シーザー」とかをやりたいなというのがあって。

 

松岡:「ジュリアス・シーザー」は、いいかもしれない。同じ年代の同じ階級の人々と、少し違う人がパラパラいるという話だから、一緒にやってきた仲間とやるには適した戯曲だと思う。シェイクスピアが四大悲劇(「ハムレット」「オセロー」「マクベス」「リア王」)を書く前の芝居だから、チャレンジしていて未完成の部分があるという点でも。やってほしいなぁ…。

 

 

松岡:翻訳劇の場合は、日本人の作家の書いたキャラクターを演じるよりも自分と遠いわけじゃない?そこを何で埋めるかっていうと、想像力しかない。それが古典になったりすると、また遠くなる。そこに必要とされる想像力の大きさとか強さとか濃さとかっていったら、並大抵じゃないですよね。でも、たぶんそれがおもしろいんだと思うんです」

 

内田:そうですね。

内田:ぶっちゃけ、今は演技をするのが楽しくてしょうがないんですよね。こういう思いでこのセリフはあるんだ、という思考や感情に出会う嬉しさだけでやっているんです。「ああ!この人のやってることがわかった!」っていう。ただ、その感触の喜びだけでやっちゃっているだけに、もしもその新しい感情じゃなくなった時、自分がどうなるのかなという不安もあります。たくさんの作品を演じたり数を重ねるごとに、今までは喜びになっていた感情を、すでに知っていて語れるっていう状況にきたら、自分は続けられるのだろうかと考えたりもしますね。

YouTube​ドキュメンタリー・稽古風景より

​「たかが世界の終わり」本編より

松岡: その隙間をなかなか埋められない時、蜷川さんは、スザンヌという役名でも「蛍って呼べ!」って日本人の名前に置き換えたりしていたり。偉い人に対して楯突く時の難しさを、「蜷川!って、言ってみろ」とか。そういう風にして、想像力を働かせる助けになることを蜷川さんはよくやっていましたね。私がオールメールになっていても好きなのは、男が女になるというその距離っていうのは、大変なものだと思うからです。着る衣装も皮膚感覚だって違うだろうから、想像力を働かせるしかない。そういった意味でも私は、翻訳劇には無限の可能性と魅力があると思っているんですよね。例えば、シェイクスピアって日本人が使わない難しい言葉がたくさん出てくる。役者さんにとって「普段、こんなこと言わねえよな」と思われるたびに、「ごめんなさい…」と思っていたんですけど、ある時、シェイクスピア・シアターの女優さんでプロデューサーである中島晴美さんに「それを言えることが、シェイクスピアをやる楽しさだ」と言われた時に、目から鱗がバラバラとこぼれたの。その時、「そうか!」と思って、「普段、こんなこと言わねえよな。だから良いんじゃない!」っていう風に、どうどうと言えるようになったんですよね。それができる役者って、どれだけ幸せかと近くで見ていて思うことがあります。

徳永: その感覚については、「たかが世界の終わり」もそうですよね。日本人の親子関係や兄弟関係の感覚とは、台詞として書かれているところが違っているじゃないですか。けれども、ああやってセリフで喋ってもらって、見せてもらうと遠回りだけど、母親の本音だったり血が繋がってるとはどういうことなのかを、いつもとは違う道順で教えてもらって、その深さを知ることができたのだと思います。自分にはないと思っていた残酷な感覚に、気づかせてもらうところも翻訳劇にはあって。そういったところが、私も好きなんだと思います。

 

内田: 僕らも好きなんですよね。おそらく、難しいからこそ好きなのかもしれない。想像力を働かせるという話がありましたが、蜷川さんが稽古で、「わー!なんでそれを言わないんだ!言葉!言葉!言葉!」と言ったあとに、ふと「…あぁ、そういうことか」「ほら、シェイクスピアが一瞬、残してきやがった」とかってよく言ってたんですよ。「お前ら、世界を全部見れてるわけじゃないんだから、世界のどこかにぜったいに落ちてるよ。そういう事実や心情が。お前らは見えてないってことを、自覚しろ」って。自分でもそう思うんです。世界全部が見えてるわけじゃないし、聞こえてるわけじゃないってことを。だけどその時、「シェイクスピアが地上に落ちてきてる」ということが、わかんなかったんです。ただ、そこにいたら落ちてくるわけじゃないんですよね…。「どうしたら、落っこちてくるんですか?」って蜷川さんに聞いたら、「まぁ、頑張るしかない」って(笑)。「日常に絶対にヒントは落ちてるから。お前の日常かはわからないけど、誰かの日常には落ちてるから」と。その時、僕は「こんな偉い人が、そんな信憑な言葉を使うのか!」と驚きましたよね。だけど今の時代になって、その〝頑張るしかない〟という言葉をみんなで実践していくしかなかったわけで。「たかが世界の終わり」にしても、お客を入れられない、キャストやスタッフの数にも制限がある。そんなことはもう、自分ではどうにもできないわけであって、そういう時にどうするかとなったらもう〝頑張るしかない〟なって。なので今回は、演出も演技も何もかも、どうしたかというよりもとにかく頑張るしかなかった。その言葉につきますね。

 

 

 

松岡: でも、頑張っただけの結果が出たじゃない!こういう表現の方法があるのかと驚かされたし、演劇の新しい可能性を感じました。手探りで頑張っていたら、思いがけないところに扉がついていたみたいな感じがするね。閉じ込められちゃっていて、あそこにカギがかかっちゃったからウロウロしていたら、「あれ、こんなところに出口があったよ」っていう感じ。頑張ったから、そのドアが見つかったわけでしょ。

 

徳永: 一生懸命、触ったりとか、叩いたりとかやるっていうことが、その扉を見つける方法だし、頑張るってことなんでしょうね。

 

内田: そうかもしれないですねぇ…。

 

德永: 私としては、蜷川さんのところでやっていた時は、ひよこだったみんなが、今すごく、化けがかっている感じがするんですよね。もうちょっと、脅威に感じてもらってもいい存在というか、集団になってきていると思う。本当にいろんないい表現や、ご本人たちの意地とか冒険心がうまいことかけ合わさって、すごくおもしろい舞台ができてると思うので、ぜひお時間を拝借してみなさんにも観てもらえたらなと思いますね。

「第7世代実験室は、

         脅威に感じられるべき存在になった」

松岡: 私ね、これ観たら、蜷川さんおもしろがってくれると思う。ぜったいに。読めてるか読めてないか、セリフを理解しているかしていないか、すっごく小さなやり取りの中でもそれを見てらっしゃる方でしょ。さっき「嘘つくんじゃねえよ」って、蜷川さんの言葉を引用なさいましたけど、エチュードの発表会で少しでも嘘が見えたら、その瞬間に辞めさせられて次に進ませてもらえない様子を私も見てたから。それでいうと、家族に会うために、自分の死を目前にして帰ってきたルイ。それを迎える母、弟、その連れ合い、妹。それぞれをちゃんと読んで、自分の言葉にしているということに、私はすごく、蜷川さんに代わって嬉しくなっちゃった。ひとりひとりの演技ぶりが役者ぶりがあざやかで、これは本当に、蜷川さんに観てあげてと言いたい。ぜひだから、ひとりでも多くの皆さんに観ていただきたいと、そう思いました。

対談を見守る出演・制作統括の周本絵梨香。

第7世代実験室は制作からドキュメンタリーなどの映像編集も俳優たちが担っている。

内田: そんな…、うまくPRしていだいて…。

 

松岡: 本当に嬉しいんですよ。それこそ、こういうことを嘘で言わなければいけない状況だったらどうしようと思っていたのね。本当に、嘘偽りなく、心底そう思って言えることが、私は何より嬉しいですね。

 

徳永: 蜷川さん、今回の手法とかもご覧になったら、悔しがるんじゃないかなと思いますね。「なんでお前ら、いいなぁ勝手にこんなことやりやがって!」と、おっしゃりそうな気がします。

 

松岡: 何かと言っていたのは、「てめえら欲望が小せえんだよ!」っていうね。やっぱりね、今回はこうして大きな欲望を持ってやったということに、とっても拍手したい。

 

徳永:「お前らコンビニサイズなんだよ!」って、よく仰っていましたけど。もうコンビニサイズじゃない。

 

松岡: 最後に、「役者であるということは、演出家として強みだからね」と言ったことは忘れないでね。シェイクスピアだって役者だったんだから。あの時代は演出という職種がなかったから、書いた人がそこにいて役を一緒にやりながらやっていったのよ。だから、演出の原点なのよ。胸を張って、そう思ってね。「俺はシェイクスピアと一緒だよ」と。

 

内田: そうかぁ。俳優が演じればいいという時代でも、もうなくなってきてますよね。

 

松岡: そういう時代じゃないし、求められると思うわ。これだけのことができたなら。

 

内田: 〝頑張るしかない〟ということですね。頑張りますわ!

 

徳永: 引き続き、頑張ってください!

 

松岡: これからも楽しみにしています、本当に。

松岡和子先生、徳永京子さん、ありがとうございました!

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by 第7世代実験室